業務上過失を殺人に繰り上げるためのハウツー

具体的にどの事件のことを扱っているか言ってしまうと色々怒られそうなので、以下に仮想事例を挙げてみよう。

「客船の船長であるAは、自身が監督する船が事故により転覆した際、乗客を救う等の措置をとることなく、真っ先に船から逃げ出した」

このような事例で、どのように殺人罪を構成するのか。今回は日本の刑法をベースに考えてみる。

第一の関門、作為性

まず問題となるのは「人を殺した」といえるだけの行為があったかどうかである。例えば、意図的に船を転覆させたり、避難しようとする人を押しのけて自分が逃げ出し、結果その人を死なせてしまった場合は「人を殺した」と言いやすい。
しかし、沈みゆく船から何もせずに逃げ出したことを「人を殺した」と評価することが出来るだろうか。

真っ先に思い浮かぶ解決策としては、「助けることが出来た人を見殺しにしたら殺人だ」という結論である。
しかし、
「昨日あなたが募金箱に金を入れるのを渋ったがために、アフリカで幼児が1人亡くなった」
として、あなたは殺人犯だろうか?おそらく違うだろう。

となると、「人を殺した」と評価するにはもう少し絞りが必要となる。それが次に来る義務の問題だ。すなわち「あなたにはこの人の命を守る義務があります。それを怠ってその人を死なせてしまった場合には、それは殺人と同視されます」というレベルの義務がある人には、義務違反によって殺人罪の行為性を肯定できる。

第二の関門、義務

助けることが出来た人を見殺しにすることを「殺人」と評価しうるだけの義務がどのような人に課せられるかは、国によって異なる。
海水浴場で子どもが溺れていたとする。彼が死ねばいいと思いつつ彼を助けないことで殺人扱いされるのはどこまでか。
1「彼の母親」2「海水浴場のライフセーバー」3「溺れていることに真っ先に気がついた赤の他人」
日本の場合、様々な事情を考慮するものの大体1〜2の間あたりに基準があると考えられる。業務契約があるから即座に重大な義務を負わされる、とは限らない。タクシー運転手が車の安全点検を怠った結果乗客を死なせても、おそらく殺人罪は成立しない。

では、船の船長はどうだろうか。船長は法令上も乗客の命を預かる立場である。また、事故の際には自ら指揮をして避難を誘導する義務もある。しかし、それが「怠った場合には殺人と同視される程の義務」といえるかどうかは国や文化によっても判断が分かれるだろう。

第三の関門、故意

次に、殺人の故意の問題がでてくる。殺人の故意とは、日常用語でいえば「殺意」に近いものがあるが、殺人の故意の概念はもう少し広い。例えば、「このままこの狭い路地を車で突っ切ったら、もしかしたらあの人をはねて殺してしまうかもしれない。でもまぁいいか」という「可能性のレベルでの結果の認容」もギリギリ故意と認められる。しかし、「この狭い路地を車で突っ切ったら、万が一人が飛び出してきた場合には非常に危険である」という「危険性の認識」ではギリギリ足りない。この際どいラインのどちら側に入るかで、過失と故意が分かれるのだ。

では、船長は乗客の死を認識していただろうか。「自分が真っ先に逃げたら人が死ぬ。でもまぁいい」と考えていたと推定出来るだけの状況があったのかどうかは、事実認定次第である。

第四の関門、結果回避可能性、期待可能性

さらに、問題は残っている。結果の回避可能性と、期待可能性の問題だ。
まず、刑法は不可能なことを人に強いない。泳げない母親が溺れる我が子を助けなかったとしても、自分の命を捨ててまで子を助けることまでは要求できない。また、助けようとしたところで助けられなかったであろう場合に、「助ける努力をしなかった」ということだけを理由に処罰を科すこともない。

本当に船長が残って指示をしていれば助けられた命があったのか、また、船に残った場合にも船長は命の保障があったのかどうかという点にも、きちんと判断すべき争点が存在する。

以上4つの問題をクリアして初めて、救助義務違反の船長を「殺人罪」で罰することが出来るのである。



また、実は日本では生じない問題もかの国では生じる。
例の事件での求刑は死刑である。しかし、実はあの国はアムネスティの分類においては「事実上の死刑廃止国」ということになっている。
あの国では、死刑制度自体は残っているものの、死刑の執行も、死刑の宣告も十年以上行われていないのである。
死刑判決を下すということは、その十年の「先進国の仲間入りをするための努力」をぶち壊すということである。
すなわち、裁判所があの事件で検察の求刑通りの罪を言い渡すためには、先程上げた非常に際どい4つの関門に加え、人権上の巨大なハードルを一つ超えねばならないのだ。