事例とメリットから考える集団的自衛権

二年前に集団的自衛権について書いたのを思い出し、あれから話が色々と進んできたので、追記として政府が提示する事例やメリットについて整理する。

邦人輸送中の米艦防護

安倍総理が記者会見で出した事例である。この事例は、「邦人輸送中だから」米艦防護ができるというわけではなく、その他の事情を鑑みた上で総合的に判断して防護ができる、すなわち、「邦人の有無は判断要素の一つだが、絶対的要素ではない」という風に7月26日の参院特別委員会で中谷大臣が述べている。
つまり、邦人が危険にさらされているからといって、それだけで集団的自衛権に基づいて自衛隊を出すということはないし、逆に邦人が危険に晒されていなくとも自衛隊を出すことはありえる、ということであり、この事例は次の武力攻撃を受けている米艦防護に吸収される。
お母さんと子どもが載っているかどうかというのは、お涙頂戴のための設定であり、事例検討には適さない余計な要素にすぎないということである。

武力攻撃を受けている米艦防護

そこで問題となるのが武力攻撃を受ける米艦防護の問題である。野党からのもっぱらの批判は米国に対する攻撃をしているだけの他国の軍隊に日本から攻撃を加えた場合、その国から見ればそれはまさに「日本からの先制攻撃」に他ならず、そんなことをしてしまえば元々攻撃の対象ではなかったかも知れない日本が攻撃対象とされてしまう、というものである。
ここではっきりさせておこう、これは法律上、国際法上の「先制攻撃」にはあたらない。国連憲章において認められる「集団的自衛権」とは、「自国が直接攻撃されていない」にも関わらず、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃」に対して反撃することを正当化するものである。したがって、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃」がある時点(これは法案の新3要件に含まれる。)で、それは法律上先制攻撃にはあたらない。
早稲田大学教授の水島朝穂氏は、この点が野党と与党の議論の食い違いの原因になっていると指摘する。『「先制攻撃」と「先に攻撃」を区別せよ――参議院でのかみ合った審議のために』
すなわち、「そもそも敵国として認識していなかった日本」が「先に攻撃してきた(先制攻撃ではない)」ことによって、新たに武力攻撃の標的として扱われる危険性の話と、国際法上認めれれない「先制攻撃」の話がごちゃごちゃになっており、野党は前者のつもりで聞いているのに、与党は後者の理屈でかわす、ということである。(これは野党の言葉の使い方に問題がある)
なお、「そもそも日本が攻撃対象として認識されていない場合」においても武力攻撃が可能かどうかという点について、新3要件においては言及がない。すなわち、「存立危機事態」であればその武力攻撃が日本に向けられる蓋然性のないものであっても3要件は満たすことになる。

弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護

アメリカ本土と日本を防衛するため、弾道ミサイル発射警戒にあたっている米艦を防護する事例である。上記の事例との違いは、日本もミサイル攻撃の対象となる危険性があること、という点だろう。これが何らかの理由からアメリカ本土のみが対象である事が明らかな場合、新3要件からも武力行使は許されないといえる。
ちなみに、アメリカ本土に向けられているが、日本に破片等が落ちてくる可能性がある場合、あるいは日本に対する攻撃かどうかわからない場合であっても、既に自衛隊法にはミサイル破壊措置命令という規定があるので、ミサイルの破壊自体は法的には可能である。

たしかに、日本が明らかなミサイルの危険にさらされており、それを防御するために活動しているアメリカの艦船が危険に晒されていて、それが無力化されれば日本の防衛に重大な影響があるような場合であれば、そのアメリカのイージス艦を防御する事に合理性はあるように思える。ただ、私は軍事的知識に乏しいのでこの点については定かではないが、ミサイル警戒をするにあたってアメリカがイージス艦の防御措置を取っていないということがどの程度ありうるのか、というのは疑問として残る。
これが、「元々アメリカ軍が日米安保条約に基づいてアメリカ軍の責任で行うはずだったイージス艦の防御任務を、日本の自衛隊がかわりに請け負う」というものであるとするならば、これは日本の防衛に対してはプラスになるものではなく、単に米軍の負担を軽減し、自衛隊の負担を増やすだけ、ということになる。

また、このような日本が明確な武力攻撃の対象となっている事が明らかな場合につき、維新の党は存立危機事態の文言を厳格化した「武力攻撃危機事態」を要件化することを提案している。

「条約に基づき、我が国周辺の地域において、我が国の防衛のために活動している外国の軍隊に対する武力攻撃(我が国に対する外部からの武力攻撃を除く。)が発生し、これにより、わが国に対する外部からの 武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態」

がその内容である。この提案についての深入りは避ける*1が、いずれにせよ与党がこの提案を受け入れるような気配はない。

ホルムズ海峡における機雷掃海への参加

まず、ホルムズ海峡そのものにおける戦時中の機雷掃海ということの現実性に関しては、既に様々な指摘によりほとんど現実的でないことが明らかになっているため、以下の記事を紹介するに留める。『話題のホルムズ海峡で起きた”タンカー戦争』
しかし、問題は同様の事案、例えば、南沙諸島周辺のシーレーンで同様の事態が起こった場合だ。例えば、中国とベトナム、あるいはフィリピンとの南沙諸島における軍事的緊張が高まり、シーレーンを通ることができなくなったような事態を想定してみよう。ホルムズ海峡で集団的自衛権の行使が可能であるとするならば、南沙諸島でも可能ということになり得えるだろう。(ただし、ここでいう密接な関係にある他国にフィリピンなどまで含まれるか、あくまで米艦への攻撃が必要かは問題となる。)ここでも、直接的に日本に対する攻撃をする意図のない国にたいして、「日本から先に武力行使をしかける」という事が可能になるというリスクが、同事案におけるメリットとどちらが勝るかということになる。

日米同盟の深化による抑止力強化

上記事例に一つ一つ疑問が呈されていく中、政府与党からより多く聞こえるようになったのが抑止力という言葉である。すなわち、個別事案はさておき、「日米同盟」を強化することは他国が日本へ攻撃をする抑止力になるではないかという主張である。確かに、このメリットはどうやっても否定しがたい。否定しようにも、メリットがあまりに抽象的すぎるためである。上記事例の検討で分かる通り、本法案は日本を守る間隙を埋めるというよりも、日本周辺で活動する米軍の補助をするという意味合いが強い。確かに感覚的に言えば、「日本はアメリカと仲がいいんだぞー」というアピールになりそうではあるが、肝心のアメリカがその見返りに何をしてくれるかは当然ながら本法案には書かれていないのである。
集団的自衛権に関する誤解の中に、「個別的自衛権だけでは日本を守れない」というものがあるが、日本はキチンと集団的自衛権によって守られている。日米安保条約とはアメリカが集団的自衛権に基づき日本を防衛する義務を負い、そのかわりとして日本がアメリカに東アジアにおける重要拠点を提供するというものだ。日本は集団的自衛権の義務を負わないが、集団的自衛権によって守らているのである。その中で、今回の法案で日本は集団的自衛権の義務的側面を自ら進んで負うのである。
これによって、アメリカが喜び、より日本防衛に力を入れてくれる、もしくは、日本防衛に興味を失いかけていたところを再び注意してくれるようになる、それは理想的な展開であるが、そんなことわかりはしないだろう。アメリカの大統領がトランプなんかになった日には、「そんなもんで足りるかボケェ、お前も一緒に戦わんかい」と言ってこないとも限らない。

更にもう一つ、抽象的メリットに抽象的批判を加えてみよう。日米安保条約とは、先述の通り、片務的な防衛義務によって成り立っている。これを、日本を仮想敵国とする第三国から見るとどうなるだろうか?その第三国が日本を攻撃する場合には、日本の自衛隊と米軍がそれぞれ防衛にあたってくる。対して、第三国が日本からの攻撃に備える場合、自衛隊のみを想定すれば良い、また、アメリカからの攻撃に備える場合においても、自衛隊の戦力は考慮の外において良い。すなわち、防衛の場合と攻撃の場合とで、戦力に差があるのだ。となれば、第三国は過度に「日本を警戒」して軍拡をする必要はなく、アメリカと争う場合のみアメリカを主眼において自軍を強化すれば良い。これが「日米安保条約の抑止力」である。しかし、日米同盟の強化となればどうなるか?自衛隊アメリカ軍が一体となって作戦行動をする頻度が増えれば、当然脅威の対象は「日本だけ」でも「アメリカだけ」でもなく、「日米同盟」になる。東アジアにおける影響力をアメリカと争っている某国からすれば、その違いは大きいだろう。抑止力というよりは軍拡競争になってしまうおそれも十分あるのではないか。

国際貢献

だんだん疲れてきたので簡単に述べる。国際貢献は軍事的貢献に限らない。最近よく「日本は汗を流さない」というフレーズが聞かれるが、アフガン復興支援、PKO等、日本人が現地にいって汗を流している事例は枚挙にいとまがない。では、何を流していないかといえば、「血」にほかならないだろう。「日本人も汗を流せ」というフレーズは確かに聞こえはいい。しかし、それが「日本人も血を流せ」となれば、どうだろうか?

湾岸トラウマは誰のトラウマか?

また、この問題に関してよく耳にするのが湾岸トラウマという言葉である。湾岸戦争の際、日本が多額の援助を出したにもかかわらず、クエートが戦後だした感謝決議において、日本が含まれていなかったというものである。しかし、これはその「多額の援助」一兆円超のほとんどがアメリカに行き、クエートに入ったのは僅か6億円だったことも要因であると言われる。クエートはアメリカの軍事活動を通して日本の援助の大部分を間接的に受け取ったので、アメリカにお礼をいい、アメリカが日本にお礼を言った。それだけのことである。
そもそも、このトラウマとやらは誰にとってのトラウマなのだろうか?一生懸命お金を出したのに感謝されなかったと嘆く日本国民がいるだろうか?感謝を受けなかったことでショックを受けるとしたら、外務省か時の政権だろう。すなわち、巨額の援助に対して自分たちが想定していた見返りを得ることが出来ず(外交政策の失敗)、それを「汗を流さない自衛隊」という図式に転化、矮小化することで責任のがれをしているに過ぎない。

日本の様々な「汗を流した援助、支援」を拡大し、その成功を「日本にしかできない国際貢献」として世界に示していくというのは、理想論に過ぎないのだろうか?

*1:政府案より厳格な要件ではあるものの、集団的自衛権の領域を超えていない。もし個別的自衛権と言い張るならば、国際法上も違法とされる先制的自衛権にあたる。