不定期シリーズ 死刑の視点・論点 ①死刑は殺人か?

その通り、殺人である。

…と、ここで終わってしまってはあまりに乱暴なので、もう少し説明を加えよう。刑法学(と身構えるほどのことでもないのだが)に於ける犯罪の要素で言えば、死刑は殺人行為ではある。更に厳密に言うなれば、殺人罪の構成要件には該当する。しかし、刑法第三十五条正当行為「法令又は正当な業務による行為は、罰しない。」という条文により、違法性が阻却され、殺人罪としては不可罰である。
死刑廃止論者の一つの切り口として、ことさらに死刑は「国家による殺人」であると強調するものがあるが、この文脈での殺人とは、あくまで正当行為、正当防衛、緊急非難と同様である。つまり、殺人罪という国家による否定的評価を与えられる行為ではない。

とはいえ、死刑が人の命を奪っていることには変わりはない。だがそれは禁固刑を「国家による拉致監禁」、相撲を「公益法人による暴行行為」と断ずるのと同義であり、学術的に意味のある指摘とは到底言えない。
宗教的、思想的、政治、法哲学的観点からそもそも国家が国民の命を奪うことが許されるかどうかという議論はまた別個の検証が必要であり、この言説とは関係がないことも明記しておく。

刑法学者の脳内事件簿 解決編 その1

ケース1は、法に基づく適正手続、「デュープロセス」に反する事案である。
日本国の憲法においては、三十一条の「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」として規定されている。これにより、何十人も惨殺した死刑確実な凶悪犯罪者が大怪我をして病院に運ばれてきても、国民の税金から医療費を出して治療しなければならないし、死刑判決が確定した死刑囚が盲腸になって、死刑執行が二週間後に迫っていても、治療しなければならない。なぜなら、刑法の十一条一項において、「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。」と明記されているからである。
この絞首刑という執行方法について、残虐な刑罰に当たるかどうかという裁判がつい最近行われたので、次の機会にでも触れたいと思う。

ケース2は、行為概念における条件関係が問題となる。
一般的に条件関係は「一定の先行事実がなかったなら、一定の後行事実はなかったであろう」という関係であると説明がされる。*1また、その公式においては、「その行為がなかったとしたら生じたであろう他の事実によってやはり結果が発生したであろう」という場合であっても、行為と結果の間の条件関係を認定する。つまり、「いずれにせよその結果は発生したであろう」という場合にあっても、条件関係を否定してはならない。
ただし、この事案における遺族がボタンを押すタイミングと、刑務官がボタンを押すタイミングがほぼ同時で、どちらが押したか判断が出来ない場合には、「疑わしきは被告人の利益に」の原則により、遺族は殺人未遂となる。

と、一応の解説と解答をしてみたが、脚注にも書いたとおり、刑法学にも様々な説があり、その説によっては結論が違ったり、その結論の導き方が異なる場合がある。むしろ、このような極論的な状況を想定し、それにたいして合理的な説明をするのが刑法学の一つの目的なのである。

*1:この説明における条件関係は、多数説である仮定的取り去り公式と呼ばれるものだが、「行為をなせば結果を生じさせうる」という説明をする合法則的条件公式と呼ばれるものもある。

刑法学者の脳内事件簿 その1

ケース1
エヌ氏は東京拘置所に勤める刑務官で、その日ある重要な任務を果たすはずであった。しかし、エヌ氏は当日寝坊をしてしまった。急いで家を出たエヌ氏は、法定速度を破り職場への道をすっ飛ばしていた。そして、道の真中に飛び出してきた歩行者をエヌ氏は轢き殺してしまった。おどろくべきことに、その歩行者はエヌ氏がその日死刑執行のボタンを押す筈だった死刑囚であり、彼が脱獄し、エヌ氏に轢かれた時間も奇しくも死刑執行の予定時間ピッタリであった。エヌ氏は罪に問われるだろうか。そして問われるとすれば一体どんな論理を用いればよいか。

ケース2
エヌ氏は東京拘置所に勤める刑務官で、その日死刑囚の死刑執行の任務を負っていた。予定通りに彼が職場に着き、総ての手続きを滞り無く終わらせた後、死刑囚を死刑台に立たせ、死刑執行のボタンを押そうとしたその時、その死刑囚に家族を殺された被害者遺族が飛び込んできて、エヌ氏に変わって死刑執行ボタンを押してしまった。この遺族は罪に問われるか。そして、問われるとすれば一体どんな論理によって裁かれるのか。

どちらも星新一氏のショートショートに有りそうな事件である。しかし、この例題自体はおふざけでも何でもなく、このような例外的事由について真面目に考えるのも、刑法学の大事な一つの仕事なのである。
一応の解説及び解答は次回の更新にて。

アメリカの格差是正デモと犯罪学を語る上で大切なこと。

世界的広がりを見せる格差是正デモと日本の若者の動き

アメリカで始まった格差是正デモは世界各地に飛び火し、大きなウネリとなっている。
以下はFNNニュース(http://www.fnn-news.com/)よりの引用である

また、ペンシルベニア州ピッツバーグで、2,000人規模のデモ行進が行われたほか、西海岸のロサンゼルスでも、デモ参加者たちは、「99%の庶民が苦しい生活をしている」などと書いたプラカードを持ち、気勢を上げた。
さらに、イタリアの首都ローマでは、参加者の一部が車に火をつけたり、商店の窓を割るなど暴徒化。
警察も、催涙ガスや放水車で応戦し、70人近くがけがをした。
さらに、イギリス・ロンドンでは、内部告発サイト「ウィキリークス」の創設者、ジュリアン・アサンジ容疑者も飛び入り参加した。
15日、およそ80カ国、900以上の都市で行われたデモ。
参加者たちは、富裕層に利益が集中する経済構造などに反対を訴えた。*1

対して、日本の動きはどうかというと、今現在それほど大きな抗議活動には発展していない。
「最近の若者は…」とか、「昔の日本人にはバイタリティがあった」などと言いたくなる人もいるかもしれなない。 しかし、本当に「若者の無気力」が今回の動きの原因なのかだろうか。

動かない日本の若者?

実はアメリカの学生と日本の学生には、失業率の増加によって受ける影響に大きな違いがある。アメリカの学生は、「大学にいくのは自分への投資であり、自分の利益のために行くものだ」という考えの元、学生ローンを自ら組み大学卒業後返済するというのが一般的である。つまり、大学卒業後に働く場所がないということは、ローンも返せず、生活のあてもないという状態を意味する。たいして、日本の学生は、そのような社会的条件が整備されていないこともあり*2、ほとんどの学生はその学費を親に支払ってもらっている。ここまで説明すれば、どちらの学生がより切羽詰まっているかは明白であろう。
人が大きな行動を起こすとき、そこにはなんらかの社会的背景、環境による原因がある可能性が高い。この事実は、犯罪学を考える上でも大切な一つのアイディアである。

犯罪学を語る上で大切なこと

生まれながらにして犯罪者となるべくして生まれた犯罪者はいるのか。
イタリア実証学派の一人であり、彼自身が医師でもあったロンブローゾは、その問いにイエスと答えた。彼は兵士と犯罪者によく見られる形質の違いに着目し、犯罪者の形質を「先祖帰り」と称し、生まれながらの犯罪者の形質と定義した。この説を発端に、ヨーロッパで優生学が生じ、最終的にナチスの歴史的大犯罪につながったことは言うまでもない。
犯罪行動に陥りやすい遺伝的形質の存在の可能性は否定することはできないが、それが絶対的なものであるという主張は明らかに間違っている。この違いは実に大きい。
刑法の刑罰論における特別予防的側面は、そういった考えのもと存在している。本来犯罪を起こす必要のなかった受刑者を、矯正することにより、今後犯罪を重ねることのないようにする。…簡単なことではない、だがそれも刑法の大事な役割の一つである。


*1:http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00209623.html 10月16日21時参照

*2:日本では借りたくても銀行が貸してくれないだろう。

ポリティカル・コレクトネスと不謹慎の狭間

Remus passed away during an important civic function held in his honor when the platform upon which he was standing collapsed.
レムスは彼自身の名誉に関わる重要な市民の義務を果たす最中に立っていた台が崩れて他界した。

さて、これは一体なんのことを言っているのか分かるだろうか。ブラックユーモアに聡い読者諸賢の中にはお分かりの方もいらっしゃるかもしれないが、これはポリティカル・コレクトネス運動のなかでの「政治的に正しい」絞首刑の表現の仕方である。
例え重大犯罪の罪を問われ絞首刑に処せられたとしても、その親族に罪はない。よってその言い方に差別的なニュアンスが含まれてはならない…と、冗談はさておき、近年不謹慎、不道徳を理由にした言葉狩りが横行している。また、3月11日の震災以降、あらゆる表現手段において、不謹慎という摩訶不思議な制約がかかっているように思える。

不謹慎な表現で、傷つくのは一体誰か。もちろん、盲目の人に対して面と向かって〇〇〇などと言えば、それは相手を深く傷つける事になるかもしれない。しかし、言葉の成り立ちとして差別的な源流を持つ言葉ならまだしも、まず言葉ありき、その後で差別的ニュアンスが追加された言葉を言い換えた所で、その差別的な社会的背景を変えなければなんの意味もない。

さらに言えば、震災の直後バラエティ等の番組を行うことを各テレビ局が自粛していた時期があった。こんなものは単に批判回避のための方便でしかなく、相手を思いやる気持ちなど一切含まれない気遣いである。

少し文章が堅苦しくクソマジメになってしまったので、最後はこんなジョークで締めくくろう。
ポリティカル・コレクトネスの運動の流れで、日本の漫画がタイトルの変更を余儀なくされた。変更後の名前は「釣りマニア三平」
これはちょっと締まりが悪いですね。

今日の本は、あえて理科教育のアブナイ、アヤシイ部分に踏み込んだ名シリーズ「アリエナイ理科の教科書」の最新作である。トンデモ本のようでありながら実はかなり理科の勉強になる部分も含まれているので、一読の価値はあるだろう。

ブログ開設とプーチン元大統領の再選について。

このブログは、実は筆者4年目三回目のブログ開設である。計算上、二年に一度ブログを初めては閉じていることになる。

3回目のチャレンジというのは、大統領だったら通常許されない回数である。大統領の任期は国によって異なるが、多くの国において共通している項目がある。「大統領の三選禁止規定」である。
この三選禁止規定の起源は、アメリカ初代大統領ジョージワシントンに由来する。アメリカ独立の父である彼は、なろうと思えばアメリカの国王になることも出来たであろう。しかし、彼はそれをしなかった。フルトン卿言うところの「絶対的権力は絶対的に腐敗する」という歴史的事実をワシントンはよく知っていたのだろう。
ジョージワシントンを超える大統領はいない。ただそれだけの単純な理由で、米国憲法には大統領の三選禁止が明記されており、その規定が様々な国でも採用されている。(アメリカの歴史上フランクリン・ルーズベルトという例外は存在する。)

先日、ロシアのプーチン首相が再び大統領選挙に出馬することが報じられた。一度メドヴェージェフを大統領に挟むことで三選禁止を回避する、所謂「中抜き三選」である。これは、ある意味では立憲主義に対する挑戦であり、憲法的脱法行為に等しい。ロシアは、ツァーリによる支配や、ソビエトによる一党独裁などの歴史から、カリスマ的指導者による独裁的支配に対する抵抗がそれほど無いようである。

政治権力に対する憲法の抑止力的作用についてはまたおいおい語るとしても、このプーチンという一人のカリスマの動向は、いずれ世界の歴史に影響を与えることは間違いなさそうだ。